ピカソと悲しみのミノタウルス

ピカソは自らをミノタウルスとし描き、語ることがよくあった。
幼少のバルセロナ時代に見ていた闘牛の生と死がせめぎ合う強烈な印象から始まり、ミノタウルス自体の神話とも繋がる、生涯切っても切り離せない彼の分身として。
ピカソにとってそれはスペイン人の本質でもあり、人間的な「悲しみ」を表す一つの側面であった。

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ギリシャ神話の中でのミノタウルスとは、クレタ王ミノスの妻であるパシパエと、彼女が恋した雄牛の間に生まれた頭は牛で体は人間の姿をした怪物を指す。
もちろんそんなことがあれば王が怒るのも当然で、ミノタウルスは迷宮へと閉じ込められた。その後何度目かの生贄として選ばれたテーセウスによって結局は退治されてしまうのである。
ミノタウルスに全く非はないのだがそれが運命なのが悲しい。

ピカソにとっては自分の通ってきた人生がこのミノタウルスに重なった。
悲しみを抱え、迷宮に迷い込み解放されることを望むもの。
彼は一生それを探し続けるのだがその役割を女性に求めつつも、最終的には絵を描くことで解放されることを繰り返している。
何度も迷宮へと迷い救いを求める人生。
天才というのもなかなか辛い。

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ミノタウルスを眺めていると、私にとって自分の分身のような存在とは一体なんだろうと考える。
やはり子供の頃からの強烈な記憶や印象はそれへと姿を変えやすいのかもしれない。
ただ今の所まだこれといったものは見つからないし、決めきれない。
ピカソのようにそれが一つとは限らないとも思っている。(フクロウも彼の分身として頻繁に現れる)
外に見える顔も内に隠す顔も、見た目や性格全ての側面に分身は見つけることができるはずである。
意図的だったり、ふと現れたり自分次第であったりなかったり。
今の時代、また今の私の生活の中で、自分とは何かという問いとただ向き合う時間は全くといっていいほどない。ただそれはいつかはやるべきことだと思っている。
まずは自分の分身を真剣に考えてみてもいいかもしれない。
ピカソにとってのミノタウルスが私にとっては何になるのか。そろそろ正面から向き合ってみたいと最近よく考えている。